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ラコタの精神的指導者で長であるデイビッド・スワローが リザベーションにおける危機的状況を語る (Nayive Heart) 世界一の自殺大国は言うまでもなく我が日本であるが 我々とよく似た容姿を持つアメリカ・インディアンたちもまた 自殺の増加に心を痛めている。 多くの研究が子どもたちの抱えるそうした絶望は、連邦政府による過去の対インディアン政策がもたらした、何世代にもおよぶ大量虐殺の結果であると指摘する。だが現在とられている政策もまた、まさるとも劣らないほどのダメージをインディアンに与えつつあるのである。それらの政策は結果的に「同化かもしくは死を」というシステムを作り出しており、これは大量虐殺がかたちを変えたものに過ぎない。 こう書き直してみたらどうだろう 多くの研究が子どもたちの抱えるそうした絶望は、日本政府による近年の社会福祉政策がもたらした、何世代にもおよぶ大量虐殺(高齢者には年金不払い、医療負担増、障がい者「自立」支援という名の援助切り捨て、若年労働者の非正規雇用拡大、熟年労働者のリストラetc.、、、その結果のホームレス、ワーキングプアの増加、子供たちの置かれた環境の悪化etc.、、、)の結果であると指摘する。だが現在とられている政策もまた、まさるとも劣らないほどのダメージを日本国民に与えつつあるのである。それらの政策は結果的に「(新自由主義への)同化かもしくは死を」というシステムを作り出しており、これは大量虐殺がかたちを変えたものに過ぎない。 わずかではあるけれど、非営利の団体の中にも、われわれのリザベーションにおいて良い仕事をしてくれている組織はある。彼らはなんとか力になろうとしてくれてはいる。だが、われわれの名前を使って金儲けだけをもくろむ、さらにたくさんのグルーブが存在するのだ。その人たちにとっては、われわれは商品に過ぎない。その連中はわれわれを使って、われわれの子どもたちが苦しんでいるまさにそのときにも、さらにもっと、自分たちの利益のためにたくさん金を稼ごうとしている。部族会議や政府がおこなおうとしているプログラムのいくつかもまた、同じようなものだ。お金はけして人々のところには届かない。そうしたお金は誰も助けることにはならない。 こちらはこう わずかではあるけれど、非営利の団体の中にも、われわれ社会的弱者に対して良い仕事をしてくれている組織はある。彼らはなんとか力になろうとしてくれてはいる。だが、われわれの名前を使って金儲けだけをもくろむ、さらにたくさんのグルーブが存在するのだ。その人たちにとっては、われわれは商品に過ぎない。その連中はわれわれを使って、われわれの子どもたちが苦しんでいるまさにそのときにも、さらにもっと、自分たちの利益のためにたくさん金を稼ごうとしている。地方行政や政府がおこなおうとしているプログラムのいくつかもまた、同じようなものだ。お金はけして人々のところには届かない。そうしたお金は誰も助けることにはならない。 (注・「われわれ」は社会的弱者の立場を代弁する形式として原文のまま残した。 別に私自身が「社会的弱者です」と主張したいわけではない。 少なくとも現時点では仕事も住むところもあって 経済的に困窮する事態にはいたっていないので) 「われわれの子どもたちは死につつある」 というのは 「われわれは死につつある」に等しい。 アメリカがネイティヴ・インディアンに対して為したこれらの迫害と虐殺と同様のことを 我々日本人も、たとえばアイヌの人々に対して行ってきた。 今頃になって「アイヌ民族を日本の先住民族と認める」なんて国会で決議したのは かつてアイヌから奪った洞爺湖でサミットを開催することに 難癖付けられるのを避けようという姑息なポーズだったのだろう。 日本の「大和民族」の文化である、「お茶」や「七夕」(もとはどちらも中国から伝わったものだ) を各国首脳に紹介してみせたりするショボいパフォーマンスはあっても かつてそこに暮らしていたアイヌ民族のことにはもちろん一切触れない。 いかに今更、文言の上だけ「先住民と認める」なんて決議したところで すでにアイヌ民族自体は「死につつある」。 いや、そんな書き方をしたら、懸命にアイヌ文化を継承しようとしている いまや一握りとなってまったアイヌの方々に失礼であろうとは思う。 アイヌの信仰や文化の一部は何らかの形で残っていくだろうし 細々とではあってもその血脈も残っていくだろう。 しかし、文化は多くその暮らしを営む土地に根付いている。 アイヌの暮らす土地の大部分は奪い尽くされ 生き残ったアイヌたちは仕方なく故郷を離れてちりじりになって暮らしている。 言葉も若いアイヌは大和言葉しか話せなくなっているだろう。 それはやはりひとつの民族、ひとつの文化が「死につつある」光景と言える。 そしてまたわかりにくい別の形で 日本の子供たちも居場所を奪われ 死と隣り合わせの絶望の中で生きている。 「われわれの子どもたち」もまた「死につつある」のかもしれない。 しかも、他民族ではなく、同族の手で。 それはわれわれの文化が死につつあるということでもある。 似非愛国者の如く「世界に誇る美しい日本の文化」などと持ち上げる気はないが 失われてから後悔しても、そのときはもう遅い。 そして文化を受け継いでいくのは子どもたちなのだ。 受け継がれていく文化とはまさしく私たちがこの世界に生きた証でもあるのだが 私たちは子どもや孫の世代に、一体どれほど豊かな文化を残してやれるのだろうか。 受け継いでいくべき子どもたちが次々と自殺していくような国を作ってしまって。 |
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