恵比寿大黒屋日記

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<<   作成日時 : 2012/01/02 12:03   >>

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明けもしなけりゃめでたくもなし。

平日昼間の「お仕事」は暦通りに年末年始休暇である。
昨年末から体調を崩しているため
この正月休みは帰省もせずジタバタせず
観念して休養にあてるつもりでいる。

2011年は東北大震災があり、福島原発事故があった。
「あった」と過去形で総括してしまって果たして良いものか。

「区切り」は無論、必要だから生み出されたものだ。
ただし、あくまで「便宜上」と言うべきだろう。
ことに現在私たちが使用しているグレゴリオ暦はローマカトリック教会によって
ユリウス歴を改良したものであって
1年の長さが実際の天体の運行と極めて近いという以外には
非キリスト教徒にとってはさして意味のあるものでは無い。
本来なら冬至の翌日か立春、もしくは春分の日を1月1日とするのが
自然に即していて理想的だと思うが
グレゴリオ暦がそうではないのは
キリスト教を母体とする近代文明思想が
人類の科学技術によって自然を克服し、改変することができる
と考えてきたことと無縁では無いような気がする。
天然自然の理に即して考えれば
特別何の節目とも言えない日に
わざわざ私たちは「便宜上」の新年を迎える。
そして、この日を境に何かが改まるという様々な「儀式」を無理矢理演出する。
こういう無理矢理な演出はテレビの得意とするところであるから
日本人が世界史上未体験ともいえる状況におかれたこの年末においても
いつもと変わらず紅白歌合戦なのである
(そういえば、昭和天皇の崩御は年明けすぐだったからともかく
年末に天皇が死んだらそれでも紅白歌合戦はやるのだろうか。
是非やってもらいたいものだ)。

この「便宜上」の区切りは、国境にも似ている。
冬至や春分と言った自然の変わり目のように
人の行き来が困難な自然地形でエリアが区切られるのは当然として
実際に私たちに与えられている国境は「便宜上」のものでしかない。
だからこそ領土問題というのも起きるわけだが
暦と同様、それなりの必要性もあるからそのような「区切り」もある。
その「便宜上」の国境に私たちは縛られて生きる。
突然引かれた「便宜上」の国境のために
二度と会えなくなる家族もある。
そこに「便宜上」の「区切り」は引かれていても
客観的にはやはり地続きなものは地続きだ。
同心円状の危険区域はもとより
県境も国境さえやすやすと越えて
福島原発から放出された放射性物質は拡散した。
過去形ではない。
拡散し続けている。
汚染地域の放射能は
年が変わったからといって無くなりはしない。
津波の被災者もまだ大勢が避難生活を強いられている。

「便宜上」の暦や境界を作り出し、押しつけている「国家」は
愚劣なまでにこの「便宜上」の「区切り」に固執する。
そこで「年内収束」などという無理なスケジュールを立て
また無理矢理「収束」したという形式的「区切り」を口にする。
まったくバカにした話というほかない。

このようなわかりやすい馬鹿げた話に限らない。
私たちはこういった与えられた「便宜上」の「区切り」に
隅々まで支配されている。
情報化や流動化が拡がっているにもかかわらず
年々その傾向は強まっている。
「にもかかわらず」なのではなく、「だからこそ」なのだろう。
情報化や流動化によって地続きの地平が無限に拡がっていくことに
人は本能的な不安を覚えるのだろう。
どこかに「区切り」がなくては不安なのだ。
ただ、その「区切り」は、本来は個々が自分の生き方に即して
自分の判断でつければいいものだ。

この年末、防衛局は普天間移設工事を開始するための
いい加減極まりないアセス書を沖縄県に提出しようとし
年末から今この正月も、これを阻止しようとする人たちが24時間体制で
沖縄県庁で座り込んでいる。
正月もクソもない。
お役所の勝手な「区切り」に合わせて無理矢理にモノゴトを進めてもらっては困るのだ
(年末、役所の仕事納め前にアセス書を届けられなかった防衛局は
その大量の段ボールを夜中にこっそり運び込もうとしたが
結局すべて運び込むことができず
宛名も何も書かれていない段ボールが守衛室に置きっぱなされただけのため
正式な受理にはいたらなかったようであるが、何とも姑息なことである)。
沖縄に飛んでいくことはなかなかできないが
彼らの阻止行動に心から声援を送りたい。
国や防衛局は、恥を知るべきだ。

2011年が2012年になった、という「便宜上」の「区切り」に
結局したがう話になってしまうのが恐縮だが
あえて2012年のテーマを挙げるなら「奪還」と、個人的には考えている。
この社会に隅々まで張り巡らされた「便宜上」の「区切り」から脱して
ひとりひとりが自分にとっての地続きの地平を見据え
自分なりの区切りを見いだしていくことが重要だ。
たとえば
国は福島原発事故の「収束」にともない
県外避難者に帰還を促している。
何の根拠も正当性もないこのような「区切り」に私たちは従う義務など無い。
自分の判断と責任で汚染地帯に留まる、あるいは戻るという人を
非難することができないのと同様に
避難を続ける人、これから避難しようとする人が
社会から非難されるようなことがあってはいけない。
たとえば
風営法の適用強化で、風営法の届け出をしていない飲食店で
深夜に客を踊らせることは違法であるとして摘発される事例が
このところ多発している。
歌うこと、踊ること、酒を飲んで語り合うこと
そのようなことは一律に区切られ規正されるべきことではない。
シンデレラではあるまいし
今まで楽しく踊っていた人が深夜12時になった途端に慌てて店を出なければいけないような
そんな馬鹿な話は無い。
公園や路上での表現活動に対する規正もしかり。
たとえあげればキリのない話であるが
いつの間にか奪われてしまった路上を、夜を、自由を
奪い返す必要がある。
昨年の「オキュパイ」運動はそのひとつだろう。

年末に横川シネマで上映されていたアゴスティ作品特集。
その中の「ふたつめの影」は、イタリアの精神病院を描いた作品だ。
精神病院に隔離された患者たちへの人権無視のひどい扱いを目の当たりにした新院長が
「彼らも私たちと同じ人間だ」と患者たちの解放を進め
最後は患者たち自らの手で、分厚い隔離壁を崩してしまう。
「壁は自分の手で崩すんだ。そうしないと本当に自由にはなれない」。
イタリアでは、この映画を機に精神病院が撤廃された。
「精神病」と「健常」の「区切り」は一体どこにある?
ここも地続きだ。
地続きの同じ人間だ。
そこに「便宜上」の「区切り」が作られ
人間扱いされない人びとが作り出される。
障害者、ホームレス、同性愛者etc.。
ご存知のように、イタリアは国民投票で原発も撤廃した。
押しつけられた「便宜上」の「区切り」ではなく
自分たちの手でで「区切り」をつけた。
日本人ができないのはこれだ。
「脱原発」は単なるエネルギー問題や健康被害だけの問題では無い。
それは「人間とは何か」「幸福とは何か」「自由とは何か」ということであり
この社会に染みついたあらゆる問題とつながっている。

私たちはそのような「便宜的」な「区切り」にかかわらず「地続き」であること。
「区切り」を取り戻すことは「自由」を取り戻すことでもある。
自分で自分を「区切る」ことは、「自由」がただの「我が儘」ではないことも意味する。
「地続き」の他者との関係の中で、自分の責任、自分の判断で選び取ることが「自由」だ。

自由を奪還する年に
「便宜上」の(世界中がキリスト生誕を基準にする意味など本来は無い)2012年がなることを祈る。
新しい世界への元年となればなおよい。

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